2月20日より始まる二人展「健康思考」に向けて、「お互いの歯がゆく思っている部分を、一冊の本をメッセージとして送り合うことで、指摘し合う」ことにした、須原健夫と近藤康弘(名前の一文字ずつをとって「健康」)の二人。
二人がお互いに送った本とそれに添えた手紙の内容は、前回ご紹介した通り。
幼なじみの仲とはいえ、ここまでズバッと言い合って大丈夫なん!?それも二人展直前のこの時期に!?と、端で見て心配になっていた私ですが、本人たちから「本と手紙を読んでどう思ったか」正直な今の気持ちが綴られて送られてきました。
かなり長いですが、ご紹介します。ゆっくり読んでくださいね。
まずは、須原「健」夫が送った本と手紙を読んで、近藤「康」弘が思ったこと。
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新しい年は「読む」から始まった。
須原からの手紙、そして志茂田景樹『黄色い牙』だ。
須原からの言葉「日々、土を耕し生きる百姓のように、日々を作ることとする工人にこそ憧れたはずだ。」は胸に突き刺さった。日々、黙々と同じ仕事を繰り返す事が上達への道だと信じ、そんな生活の中に喜びを見つけ出す事が、焼き物づくりをしていく上で自身が初心としていた事だった。(焼き物づくりをする以前は荷物を積み込む仕事で、10年考えもせずただひたすら流れてくる膨大な荷物を積んでいるうちに年月と共に自然と技術が上がっていくのを実感し、これを焼き物づくりに置き換えればそのうちなんとかなるだろうと、経験から得た知恵だ。)だが、今の自分はどうだろう。器を作るには経験がないと形だけのものになってしまうのがたまらないからと始めたお茶やお花の世界。その世界の面白さに見事に溺れてしまい、日々繰り返す轆轤(ろくろ)が置き去りになっているのは事実だ。日々手を動かす努力…、痛く響いた。
そして『黄色い牙』。素直に面白く夢中になって読んでしまったのだけど、時は大正時代、秋田の山奥のマタギの長の葛藤の物語。押し寄せる近代化の波に、日本そして村や村人が変わっていく姿に絶望を抱くも「自分の代で本来のマタギらしいマタギは最後になるかもしれないが、自分の代はなんとしても昔からのマタギの教えを守り抜く」という強い姿勢に心打たれた。壊されていく自然を見つめながらも、先祖がそうやってきたように、山神様に生かされているという事を日々大切にし(生活のベースには常に山神信仰がある)むやみに変えない生活、生きる姿に、今も昔も時代が悪いと嘆くのではなく、大切な事を守り生きて行く信念をもつことが大事だと受け取った。時代に流されず、自己が良しとする器を作っていくという信念、人生を捧げる覚悟。どんな強大な敵にも立ち向かっていく姿に溢れ出す誇りと自尊心。この本を読んで思いなおした。
余談だが、真っ先に自分が起こした行動、わかっているけどやめられないのは形から入ってしまう性で、先日骨董市の前を通り過ぎた時にふと思い、戻って膨大な品物の中から探し出したのは、穏やかで美しい表情をした女性に見える石の菩薩像。財布の中は風が吹き抜けるほど淋しかったけど、偶然通りがかった友人がいて、こちらの顔を見て、お金貸すよと言ってくれた。(内心はそんなもん買うんじゃない、呪われるぞと思っていたらしい。)すべて世の中はご縁で成り立っていると考える自分は、馬鹿にならない金額の衝動買い。25キロもあるそれを山神様にしようと決め、連れ帰った。土を扱うこんな仕事だからこそ、こんな時代だからこそ祈りだ。自然崇拝を大切にしようと、山神様に「今日も土を触らせていただきありがとうございます」とお参りする日々が始まっている。そして弱い自分を鍛え直すために、納屋より引っ張り出してきた懸垂マシーンで日々肉体をいじめている。「健康的なものづくりをしよう、その為には健康的な暮らしをしよう」という初心を今一度見つめ直し、自分が理想とする暮らしに似合う、そして使いやすいものを作っていこうと、自身の器を見直して新たな気持ちで今、轆轤に向かっている。
今回の「健康」間でのやりとりは、大きなお世話だと思うこともお互い多々あるだろうが、長いつきあいだからこそ自分じゃ見えなくなっている姿を指摘しあうということは、きっとものづくりにプラスになったと思う。面と向かって相手におかしいといいあえる相手を持てた事は幸せな事だなと思う。蓋を開けてみれば二人の選んだ本は、真言宗の教えが根っこにある山神を信仰しているマタギの物語と、天台宗のお坊さんの伝えたい事の物語。手紙の内容は、俺からは「他人ともっと向き合え!」で、須原からは「自分を見直せ!」だ。まるで月と太陽、水と油のような、真逆のようで裏表のような似た結果に面白可笑しく思ってます。俺が須原に送った『ただの人になれ』の表紙には副題として「今こそあたりまえに生きよう」とあり、須原から送られた『黄色い牙』には作者直筆のサインと一言が添えてあり、それを繋げると「今こそあたりまえに生きよう、いまが出発点」となる。きっと山神様が「健康」へ送るメッセージであり、騒がしい世のひとへの言葉だと受け取りたい。
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次に、近藤「康」弘が送った本と手紙を読んで、須原「健」夫が思ったこと。
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どうしてくれよう…
おっさんの唇がわなわなと揺れた。
冬もいよいよ本番という年の瀬。
なんだかしらないが、やけに凝った可愛いらしい封筒から、全然可愛くない内容の手紙が出てきた。
ディスる、ダメ出し、愛の鞭。そんなの、なんだっていいが、とにかくすごい内容だ。
不動明王ばりの憤怒の相で手紙を睨みつける。
飾り気の無い生の言葉で、次々と至らぬ所を指摘する言葉達。
たしかに今回は、二人展を前につくり手として苦言を交わし合い、お互いのさらなる向上を目指すはずだった。
しかしこれはもう、つくり手としてどうこうというよりは、人としてどうなのと言われているような。
しゅしゅしゅ…しゅ…
不動明王のへの字の口の端っこから、空気が漏れ漏れ、なんだか今度は情けなくて、泣きたくなってきた。
全部無視しちゃうか。それとも理論立てて否定してやろうか。
くちびるを突き出したり、変な踊りを踊ったり、一通り悪態をついてから、溜め息をついた。
そういうわけにもいかないんだよな。
手紙の内容は辛辣である。しかし、それを綴る心は、本気で心配してくれているのが良くわかる。
内容が正しいとか間違っているとかは、どうとでも捉えることができるけれど、それを書いてくれた気持ちは、真っ直ぐで疑いようが無い。
ならばこちらも、真っ直ぐ受け止める他無いだろう。
手紙は工房を東京から大阪に移してからの、僕の人付き合いの無さを心配する内容が主となっている。
むろん、実際に全く人付き合いが無い訳では無い。
お客様や、お取引先、工房を訪れてくれる友人達とは変わらず交流させていただいているし、子育てなど一番近い人付き合いである家族とは、これまでになく正面から向かい合う日々だった。
ならば、何が足りないのか。
おそらくそれは、新しい人との関わりであり、自分の世界を広げていくことなのだろう。
そう考えると大いに思い当たる節はある。
高校卒業から長い時を過ごしてきた、東京でいただいた様々な縁に甘え、いつの間にか新しい土地で人間関係を築くことに後ろ向きになっていた。
つくり手としての自己の世界を研ぎ澄ます為にあえてそれを選んでいるという気持ちもあったけれど、その世界自体がまだまだ小さく弱いということを見過ごしていた。ともすれば、世間という現実にすり潰されてしまう程に。
どんなに研ぎ澄まされていても、ポキッと折れてしまってはしょうがない。近藤はきっとそんなことが言いたかったんじゃないだろうか。
自分にはきっと、様々な世界と交わることが必要なのだ。人間関係でも、ものづくりでも。世界を広げ、より太く、より強く。
そういえば……。
手紙と共に送られてきた本の内容をもう一度確認しようと手に取った。
光永澄道「ただの人となれ」
表紙には、長渕剛が三回生まれ変わったような、すごい迫力の筆者が大写しになっている。
やっぱりやめておこうかなと押入にしまい込みたくなる衝動を抑え、そろそろとページをめくった。
十二年もの間、下界との接触を断ち、様々な苦行荒行を行う千日回峯を成し遂げた筆者は、いわば「一人」を極めた人物だ。
そんな筆者も、籠山後は来るもの拒まずで、訪れる人々には誰にでも会うことにしていたらしい。
世間音痴と言って憚らない筆者が世間の悩みに向き合う様は、達観しているようでいて人間臭く、なかなかにおもしろいのだが、きっとそうしたやり取りは、より自分のかたちを明確にすることでもあったのだろう。
自分のしてきたことはなんだったのか。それを確認する為にも、人との関わりは必要なのだ。
そっと本を閉じる。山の上から遠く街の灯りを眺める筆者の後ろ姿が自分と重なる。
一度読んだ本は、手紙をきっかけとして別の意味を持ち始めた。
良い本を送ってくれたのだ。
清々しい風が吹き抜けた。自分は、小さくまとまってしまうところだったのかもしれない。
持つべきものは友達だな。感謝の気持ちを持ってもう一度、近藤の手紙を開く。
…………………。
こんのガキャああ……
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つい、端からツッコミを入れたくなるところもあり、私はおもしろく読ませてもらいましたが……さておき。
辛辣な指摘に、腹が立ち、傷つき、でも、こういうやりとりができる互いの存在のありがたさに気づいたように見える二人。
さあ、これで二人展に向けての意気も大いにあがってきたはず!
制作にも熱が入ることでしょう!
……それとも、また、考えすぎてしまう、のか!?
その後の二人は、2月20日からの二人展で。
たくさんのご来場をお待ちしております!