こちらは「読むロバの会(オンライン読書会)」の会場です。
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読んで書く、文章に親しみ愉しむ読書会です。
本を読んで感じたこと、考えたこと、それを言葉に、ましてや文章にするのはなかなか難しいかもしれませんが、どうぞ気軽に書いてみてください。
8月の「読むロバの会(オンライン読書会)」
テーマは……
「戦争と平和」
8月末までの1ヶ月間、上記のテーマで選んだ本について、このブログのコメント欄に書いていってください。
過去に読んだ本から選び、オススメ紹介文を書いてもよし。
テーマをもとに自分自身の今月の一冊を選んで、読んだ感想などを綴ってもよし。
匿名でもOK。
何度書いてもOK。
誰かのコメントに返信してもOK。
書き方は自由です。
ヒマール店頭でも、今月のテーマで本をセレクトして並べますので、よかったらチェックしにいらしてください。
ご参加をお待ちしています!
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長野まゆみ『八月六日上々天氣』(河出書房新社、1995年)
昭和十六年に女学生だった珠紀が、時を経てあの八月六日を迎えるまでのものがたり。
あの朝、汽車に乗って出かけていった史郎はどうなったんだろう。
あのあと、珠紀はどうしたんだろう。
その前に、枕辺で珠紀の額に手をあてた市岡はどこにいったんだろう。
顛末はまるで描かれず、静かにしずかに時間が過ぎていく、このものがたりを読んで、
こころのどこも痛まずにすむのならいいのだけど。
はじめまして。ちせさんの紹介で来ました。
プリーモ・レーヴィ『休戦』(岩波文庫、2010)が面白いです。第二次世界大戦が終わり、アウシュヴィッツをかろうじて生き延びたユダヤ人の著者が、故郷イタリアに帰還するまでの9か月間の旅の記録。「戦争」と「平和」のはざまを描いた作品です。
終戦直後のヨーロッパを横断する旅の途中で出会う人々とのエピソードが読みどころで、特に印象的なのはナフムというギリシア人の男。「彼は、靴がないのは非常に重い過失だと言った。戦争の時はまず二つのことを考える必要がある。まず初めに靴で、次が食料だ。人々が言うように、その逆ではいけない。なぜなら靴を履いていれば、あたりをうろついて食べ物が得られるが、その逆は成り立たないからだ」。
「だが戦争は終わっている」と反論する著者に対して、ナフムは簡潔に答えます。「いつも戦争だ」
靴、なんですね。
災害で避難するときも靴が大事だとききました。
『休戦』、読んでみたいです。
大久保さん、ご参加ありがとうございます!
私は今、「夜と霧」を読んでいて、そこでも靴は大事だと考えさせられる記述がたくさん出てきます。
収容所へ着くと、履いてきた靴は脱がされ、サイズの合わないボロ靴をあてがわれます。
雪道を工事現場まで歩かされ、足が濡れてしもやけになり、ふらつくと殴られ、凍傷になって足指を失い歩けなくなる(労働できなくなる)と、それは死を意味するのですよね。
読了したらまた書きます。そして次は「休戦」を読みます。
「夜と霧」新版 V.E.フランクル著/池田香代子訳(みすず書房)
ロングセラーの名著で、今回読んだのは2002年に新訳・新編集で出版されたもの。
旧版の副題「心理学者、強制収容所を体験する」が原題で、そのタイトルの通り、第二次世界大戦中、アウシュビッツ、ダッハウなどの強制収容所に収容されていた心理学者による、「内側から見た」強制収容所の体験記。
だが、著者が心理学者であることから、体験記である以上に、自身と周囲の人の観察・分析、そしてそのことから、人間とは何か、生きるとはどういうことか、が描かれています。
特に心に残ったところから、2つほど抜き出してみます。
「暫定的なありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。」
(この1年半の自分たちに重ねて読んでしまいました。)
「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」
たまたま数日前にある人と、この本のことではなくて、「当事者による分析が大事だと思う」というような話をしたばかりなのですが、これはまさにそういう本です。
静かな言葉が確かに届くと信じられる本でした。
『夜と霧』では、最初のほうに出てくる、被収容者が煙草を吸いはじめると希望を失った証拠だ、というエピソードが印象に残っています。食料と交換できる貴重な煙草を自分で吸うようになったということは、人生最後の日々を楽しもうと覚悟を決めたのだ、と。
『夜と霧』から思い出したのが、イルゼ・アイヒンガー『より大きな希望』(東宣出版、2016)です。原書は1948年刊。
フランクルはドイツによるオーストリア併合ののちにウィーンから収容所に連行されましたが、例外的にウィーンに残ったユダヤ人もいました。アイヒンガーはアーリア人の父とユダヤ人の母をもつ「第一級混血児」として第二次世界大戦中をウィーンで過ごします。しかし、母方の祖父母、叔父・叔母は収容所で命を落としたそうです。
『より大きな希望』は作者と同様、ウィーンに残った「半分ユダヤ人」の少女エレンを主人公にした小説。差別も暴力も死も描かれるのですが、夢(願望)と現実が入り混じった子供の視点を通して見られるウィーンの街には、不思議な静けさも感じられます。
煙草を吸いはじめる、というのはどういうことなのか、確かに印象深いエピソードでした。
いま交換するべきか、まだ取っておくべきか、考える場面もありましたね。
「より大きな希望」は小説なのですね。
“半分ユダヤ人”であった人の境遇、読みたいと思います。
リシャルト・カプチシンスキ『黒檀』工藤幸雄ほか訳(河出書房新社、2010)
池澤夏樹編世界文学全集から、ポーランド出身の作家が、40年以上にわたって取材したアフリカ大陸のルポルタージュ。独立からその後の内戦まで、アフリカ各国の抱える困難、その中でも続く人々の日常を描いていて、とても興味深いです。
例えばスーダンの内戦について、
「……これはアフリカ史上、最長にして最大の戦争であるばかりか、おそらくは世界で、現時点における最大の衝突である。であるにもかかわらず、地球上でも指折りの辺鄙な地域で戦われている戦争ゆえに、直接的にはヨーロッパにもアメリカにも脅威を与えず、ために世界の関心は極めて薄い。加えて、戦争の舞台、悲惨な殺し合いの続く広大な現地へ行く手段がないことと、ハルツーム政府による規制の厳重さが相俟って、メディアは実際上、立ち入れない。それがために、地球人口の大部分は、スーダンで大戦争が進行中であることについてなにも知らない」
あるいはこんな一節も。
「……アフリカの場合、子どもが大量に子どもを殺している。もう何年も前から、いや、ずっと以前からである。事実、現代アフリカの戦争は、子ども同士の戦争なのだ。
戦争が終わらぬまま、何十年にもなる場所(例えばアンゴラ、スーダンなど)では、年長者の大半はとっくに戦死したか、飢饉や疫病に斃れて、いなくなっている。残るのは子どもらであり、子どもが戦争を続行する」
世界各地で現在も続くさまざまな戦争について、考えさせられる1冊でした。
アフリカ、ということで思い出したのが、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの
『ひそかな経験』。
以前、読書会でも取り上げたことのある短編集『なにかが首のまわりに』のなかの
一編です。
舞台はナイジェリア。イスラム教徒とキリスト教徒との対立から起こった暴動に
巻き込まれたふたりの女性の話。
イボ人で裕福なキリスト教徒のチカと、ハウサ人で貧しいイスラム教徒の女(名前は
あらわされてない)の対比はそのまま「戦争と平和」のようで、と言っても「平和」
だっていつまでも「平和」ではいられないし、「戦争」にも家族に囲まれた日常の
生活がある。
あたりまえのことなんだけど、いつもそれを忘れそうになる。
いま、たったいまのいまもそれが切実な現実であるのに。
「ウジョとソナ 独立運動家夫婦の子育て日記」
パク・ゴヌン著/ヤン・ウジョ、チェ・ソナ原案/神谷丹路訳(里山社)
グラフィックノベルです(マンガ、とは言わないのかな?)
原案に名前があがっているウジョさんとソナさんは実在した人で、サブタイトルに書かれている「独立運動家夫妻」。日本の植民地下にあった韓国から中国に亡命し、韓国の独立を夢見て、大韓民国臨時政府を打ち立てたグループのメンバーです。
彼らが亡命してすぐに日中戦争が始まったことで、中国国内でもあちこち転々と、避難する生活を余儀なくされるのですが、その間に産まれた2人の子育てを軸に、彼らがどう生き延びようとしていたか、子どもたちにどんな未来を託そうとしていたか、日本軍の攻撃がどのようなものであったか、中国のようすがどうであったかが、ウジョとソナの視点から描かれています。
帯に、映画「この世界の片隅に」の片渕監督が「もうひとつ、同じ世界の別の片隅に窓が開いた。何が同じで何が違うのか。同じところはまるでおんなじで愛おしく、違うところはわれわれが想像していたよりはるか遠くにまで広がっていた。」という言葉を寄せられていますが、「違うところ」の広がりは本当にはるか遠く、多くの日本人にはまったく見えていないな、と感じてしまいました。
素朴にも見え緻密にも見え、可愛らしくもありおどろおどろしくもあり、淡々としているようで激しい、パク・ゴヌンさんのグラフィックは、一度見たら忘れられません。
見えていない広がりがあることをいつも意識していたいな、何に関しても。
ごく身近なひとにも、そういう見えていない広がりがあるんだと、ふとした
ときに気づくことがある。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『ボタン穴から見た戦争 白ロシアの子供たちの証言』三浦みどり訳(岩波現代文庫、2016)。
1941年、ドイツ軍の侵攻を経験したベラルーシの子供たちによる101の証言から、戦時下の日常が浮かび上がってきます。短いものはとても短く、ここに全文を引用できるほど。
うちではちょうどヒナ鳥が帰った時だった。黄色くて、かわいいヒナたちが床の上を転がるようにして僕の手にのってくる。一斉射撃の前におばあちゃんはヒナ鳥を集めてザルに入れた。
「こんな時に戦争だなんて、ヒナがかえったのに……」
ひよこが殺されやしないかと心配だった。どんなに泣いていたか今でも憶えている。地下の食料庫に皆が隠れに行く時も、おばあちゃんがひよこをザルに入れて持ち出さないうちは、僕を連れ出すことはできなかった。
どれだけ追い詰められた状態になっても、やはり子供にとって動物たちは特別な存在なので、さまざまな証言に姿を現します。
……お母さんはなけなしの物を持っていっては、ジャガイモやトウモロコシに換えてきました。トウモロコシのおかゆを煮てくれて、それぞれに分けてくれても、子どもたちはおナベを見て頼みます。おナベの底をなめさせて! 私たちのあとは、ネコがなめました。やっぱりお腹をすかせていたのです。
先にあげた「ウジョとソナ」もそうですが、戦時下の日常を知ることで、「戦死者○万人」といった数字に一人ひとりの顔があることを意識でき、ちせさんが書いてくれた「見えていない広がり」があることも少しは想像できるようになると感じます。
「だけど空の上からじゃ 何もはっきり見えやしない」
と清志郎さんも歌っています。
スティーヴン・クレイン『勇気の赤い勲章』(藤井光訳、光文社古典新訳文庫 2019年)
原作は1895年に発表された。南北戦争の激戦地を舞台にした小説。
主人公は、意気揚々と北軍に志願兵として入隊したものの、戦闘が始まりそうになると、
怖くなって逃げ出してしまうんじゃないかと心配になり、実際逃げ出してしまう。
逃げ出したことへの後ろめたさを抱えながらも部隊に戻り、誰かに責め立てられるんじゃ
ないかと怯えていたのに、戦友も戦いを恐れていることに感づくと、いきなり優越感に
浸ってみたり。
あっちへ行ったりこっちへ行ったりする心の動きが詳細に描写されていて、読んでいると
目が回りそうになります。でも、ひとの心なんてこういうものだよな、と思わされる、
説得力のある文章です。
戦闘を前に神妙になった戦友から、おそらく形見の品が入っていると思われる包みを
預かったあとの、主人公と戦友のやりとりーーー
「戦友は口元を手で押さえると、また咳をした。上着のなかで体がもじもじとしていた。
「その」と、ようやくどうにか言った。「あの包みを返してくれないかと思って」。肌を
ちくちくと刺していく血が彼の顔に上り、頬と額を染めていた。
「いいとも、ウィルソン」若者は言った。自分のコートのボタンをふたつ外し、片手を突
っ込むと、包みを取り出した。それを差し出すと、戦友は顔を背けていた。
包みを出す動きはゆっくりしていた。そのあいだに、この件について何か気の利いたこ
とを言おうと考えていたのだ。だが、何ひとつ思いつかなかった。友には何も悩まず包み
を引き渡すことになった。それを実行したことで、自分を絶賛した。心の大きな振る舞い
だった。
そばにいる戦友は、かなりの恥辱に苦しんでいるようだった。その様子をじっと見てい
ると、若者の心はさらに屈強になるように思えた。自身の行動について、そうやって顔を
赤らめるような心持ちになったことはなかった。つまり、自分はずば抜けた美徳の持ち主
なのだ。
恩着せがましい哀れみとともに考え込んだ。「かわいそうに。かわいそうに。つらい思
いをして、哀れなやつだな」」
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