こちらは「読むロバの会(オンライン読書会)」の会場です。
日々のブログの更新は、ひとつ下の投稿から始まります。
読んで書く、文章に親しみ愉しむ読書会です。
本を読んで感じたこと、考えたこと、それを言葉に、ましてや文章にするのはなかなか難しいかもしれませんが、どうぞ気軽に書いてみてください。
9月の「読むロバの会(オンライン読書会)」
テーマは……
「老い」
9月末までの1ヶ月間、上記のテーマで選んだ本について、このブログのコメント欄に書いていってください。
過去に読んだ本から選び、オススメ紹介文を書いてもよし。
テーマをもとに自分自身の今月の一冊を選んで、読んだ感想などを綴ってもよし。
匿名でもOK。
何度書いてもOK。
誰かのコメントに返信してもOK。
書き方は自由です。
ヒマール店頭でも、今月のテーマで本をセレクトして並べますので、よかったらチェックしにいらしてください。
ご参加をお待ちしています!
2021年8月の読むロバの会「テーマ:戦争と平和」はこちら!
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こんにちは。こちらは9月になって急に涼しくなりました。
さて、「老い」で思い出したのが、
藤原道綱母『蜻蛉日記』/室生犀星『現代語訳 蜻蛉日記』(岩波現代文庫、2013)
道綱母は半生の回想を次のように書き始めます。「かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり」。室生犀星の現代語訳では「生涯ももう半ば過ぎて、今ではこの世になんのなすこともなく、中途半端な状態で生きながらえている私であった」。結びにも「思へば、かうながらへ、今日になりにけるもあさましう……」とあります。
永らえた、と記す作者ですが、調べてみると下巻の最後でまだ40歳ほど。とはいえ10世紀の人にとっては老いを意識する年齢だったのでしょうか。久しぶりに訪ねてきた夫を前にして、「老いて恥づかしうなりたるに、いと苦しけれど、いかがはせむ」(犀星訳だと「私は何か老い込んで恥ずかしいくらいで、心苦しいがもうしかたがなかった」)。この「いかがはせむ」には、長年の結婚生活の疲れと諦念と、同時に馴れ合った仲ならではの気安さもいくらか感じられて、好きな一節です。
アーシュラ・K・ル=グウィン
「暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて ル=グウィンのエッセイ」(河出書房新社)
2018年に89歳で亡くなったル=グウィン。
この本は、ル=グウィンが2010年に始めたblog記事からまとめられた、生前最後のエッセイ集。
その第一部タイトルは「八十歳を過ぎること」で4つの記事が収められています。
「弱虫の逆襲」という記事にはこう書かれています。
私は自分自身が年寄りになったときから、「年齢は気持ちが決める」という常套句を信用しなくなった。
(中略)
実際、私は七十歳を超えた人が、年齢は気持ちで決まると言うのを聞いたことがない。その言葉を元気づけとして自分に言い聞かせたり、お互いに言い合ったりしているのは、それより若い人たちだ。そういう人たちが実際に高齢の人に同じ言葉を言うとき、彼らはそれがどんなに愚かなことか、どれほど残酷な仕打ちになりうるか理解していない。
(中略)
老年は体の鍛え方や勇気の問題ではなく、たまたま長生きしたかどうかという運の問題なのだ。
……そうなのか。そうなのかもしれない。理解せずに、言いがちだなあ、と。
ちなみにこの本のタイトル「暇なんかないわ〜」は、同じく第一章のひとつめの記事、ハーバード大学から1951年卒業クラスの同窓会を前に送られてきたアンケートにあった項目、問い18「余暇には何をしますか?」への、ル=グウィンからの回答。そして、この記事の最後にはこう書かれています。
私は来週八十一になる。余っている時間などないのだ。
また時間ができたので、読書会に復帰です。よろしくお願いします。
あまり小説は読まない中で、ポール・オースターは好きな作家です。原文で触れたいな、それもすぐにと思い、kindleで読み始めたのですが、書き出しの調子が妙に緩慢な気がして落ち着かず、というか子どものときにけがをした逸話が出てきて、怖がりの私は途端に読みさして、これを書いています。
何歳から「老いて」いるかは、ある程度人によるでしょう。「長安に男児有り二十にして心已に朽ちたり」という詩句もあります。
老いを描くというのは、むずかしいとも思いますが、どうでしょうか。高齢者の立ち居振る舞いを全体として捉えて描くことは、できるでしょう。自分の老いの断面を俯瞰して、文章にすることも。ただ、その表現行為自体、表現されたもの自体は、「老い」でしょうか。じゅんこさんが引用されたル=グウィンのようにがんばる(意地を張る?)つもりは私にはないのですが、表現する働きそのものは老いを超えると思っています。
そうこうするうち、表現から置き去りにされる時がくるでしょう。(私は哲学対話というのをやっているのですが、死ぬ時まで対話をするとは予想していません) たぶん受容するでしょう。私はものぐさなので。
ル=グィンの言葉から思い出しました。老いについて書きつづけたアメリカの作家。
メイ・サートン『八十二歳の日記』中村輝子訳、みすず書房、2004。
1993年から1994年(81歳から82歳)にかけて綴られた最後の日記。70代で亡くなった両親を回想して、
七〇歳なんてとても若い! 本当の老いとはどんなものか、服の着替えさえどんなに努力がいるか、ふたりはけっして知らなかったのだと思うと寂しく感じた。
とはいえ、サートンの毎日は思いのほか忙しくて、次々と新刊の本を読み、映画を楽しみ(「ウーピー・ゴールドバーグの『天使にラブソングを』のビデオを大笑いして見ながら」)、ボスニアの戦争に心を痛めながら、もちろん原稿を書いたりインタビューに答えたりもします。それでも、時には理由もなく疲れて仕事に「手をつける気にならない」。
八一歳であるのがいいのは、できるところを人に見せなければ、と頑張らずに、なにかをするつもりはありません、と告げて、しないこと。それでもう問題ない。
タイトルは『82歳の日記』でした……。
こんにちは。ふと思い出した短編の話をします。
ディーノ・ブッツァーティ「コロンブレ」(『神を見た犬』関口英子訳、光文社古典新訳文庫、2007所収)
ステファノは12歳のとき、父親に連れられて乗った帆船で「黒いもの」が追ってくるのを見つける。話を聞いた父は青ざめる。それは、海の男たちのあいだでは有名な、コロンブレという「謎に包まれた恐ろしい鮫」だという。
「あいつは餌食にする人間を選ぶ。だが、その理由は誰にもわからないんだ。いったん決めると、何年も何年もつけ狙う。相手を呑み込むまでな。奇怪なことに、あいつの姿を見ることができるのは、餌食として選ばれた本人と、その血を分けた家族だけなんだ」
父親はステファノが海に近づかないよう腐心するが、成長したステファノは運命に挑戦するように船乗りになり、自分を追ってくる怪物コロンブレをたえず意識しながら航海を続ける。
「こうしてある日のこと、ステファノはふと、もはや自分がすっかり年老いてしまったことに気づいた。……年老いた彼は、ひどく不幸でもあった。その生涯はすべて、つきまとう敵をふりはらうために、とても正気とは思えない大海から大海への逃避行に、費やされてきたのだから」
死期を悟ったステファノは、逃げ続けてきたコロンブレのもとに自ら出向くことを決心するが――。
老いた男に訪れた啓示が、それまでの人生を残酷な光で照らしだす。強い印象を残す寓話です。
ステファノ、どうなったんでしょうか。気になります。
あらすじを読みながら、『眠れる森の美女』のことを考えていました。
あれは確か、「15歳」と時を限って呪いをかけられたのだと思うのですが、
あれに限定条件がついていなかったらどうなっていたのだろうかな、と。
眠っていたのが老婆だったとしたら……。
津野海太郎「最後の読書」(新潮文庫)を読み始めました。
鶴見俊輔さんの「もうろく帖」、読んでみたい。
なかなか読書時間がとれず、まだ途中なのですが、
紀田順一郎さんのことを書いた「蔵書との別れ」というお話が壮絶で震えました!
村田喜代子『エリザベスの友達』(新潮文庫、2021年)
初音さん97歳は介護つき有料老人ホームで暮らしています。
いまではふたりの娘のことも誰だか分からなくなって、
頭のなかでは70年以上前の天津の日本租界で生きています。
ホームには他にも、いまここにいるのにここにはいない
お年寄りがたくさんいます。
認知症のこういう作用って、どういう感じなんだろう。
本人も周りも辛いことの多い認知症という病気も、
ここまでくると悪くないのかもしれない、と思えるように
描かれています。
どこへでも行きたいところへ行って、戻りたいときに戻って、
会いたいひとに会って、頭のなかはとても自由です。
テーマが「ともだち」のときも「戦争と平和」のときも、この本を
紹介したかったのですが、9月になって新潮文庫に入ったので、
手に入れやすくなりました。
「エリザベス」が誰なのか、「エリザベスの友達」が誰なのか、
最後まで読めば分かりますので、ぜひ。
最後に、「この作品執筆の強い契機となった」として、
松村由利子さんの短歌が紹介されています。
もう誰も私を名前で呼ばぬからエリザベスだということにする
こんばんは。『最後の読書』と『エリザベスの友達』、どちらも気になります。
マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出文庫、1992)。
「自伝的」ということで話題になり、映画化もされた40年近く前のベストセラーですが、やはり忘れられないのは冒頭に置かれた次の一節。
思えばわたしの人生はとても早く、手の打ちようがなくなってしまった。十八歳のとき、もう手の打ちようがなかった。十八歳から二十五歳のあいだに、わたしの顔は予想もしなかった方向に向ってしまった。十八歳でわたしは年老いた。
老いの意識は、年齢にかかわりなく訪れる。そういえば、デュラスの小説と同じころ読んだ佐々木丸美や初期の氷室冴子の作品にも、似たような感覚が描かれていた気がします。
一条ゆかりの作品にも、年齢とは関係なく、何かが損なわれたときにひとは老いる、
という描写があって、強烈に印象づけられています。
あのころの少女マンガや少女向けの小説にはそういう方向性があったのでしょうか。
ポール・オースター『サンセット・パーク』(新潮社、2020年)
こちらは年齢相応の老いを実感している父親の語りが身につまされます。
「レンゾーは疲れているように、いつになくやつれているように見える。僕らは
どうやってこんなに老いたんだ?とモリスは自問する。二人とも六十二歳であり、
どちらも健康を害してはいないし、太っても禿げてもおらず見るからに老いぼれ
たという感じではないが、髪は白くなったし、生え際も後退して、三十以下の、
いや四十以下の女性の視線が素通りする段階に達している。」
「年月が経つにつれて人は強くなりはしない。苦しみや悲しみの蓄積はより多く
の苦しみや悲しみに耐える力を弱めるだけであり、苦しみや悲しみは不可避だか
ら、人生後半にあっては、ささいな挫折が若いころの大きな悲劇と同じ強さの
打撃をもたらしかねない。」
『幽霊たち』を初めて読んだころには、いつの日か、こういう「老い」についての
オースターの記述に、自分がここまで深く共感することができるようになるなんて、
もちろん全く予想することすらありませんでした。
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