こちらは「読むロバの会(オンライン読書会)」の会場です。
日々のブログの更新は、ひとつ下の投稿から始まります。
読書会をこういうかたち(オンライン)で開催するようになって、まもなく半年。
「集まっておしゃべりするほうがたのしい」
「書く、というのはなかなか難しい」
そういうご意見、とてもよくわかります。
が、まだしばらくは、オンラインで続けてみたいと思います。
やむを得ずオンラインに移行した読書会ですが、これをよい機会ととらえ、本を読むことと、読んで考えたこと・感じたことを自分の言葉で文章に書いてみるということとを、つなげてみたい、と思います。
4月から新年度、ということで、ちょっとだけリニューアルしてみることにしました。
これまでは1冊の課題図書を決めてみなで同じ本を読んでいましたが、今回からは1つのテーマを決めますので、そのテーマの中で本を紹介しあったり、各自で本を選んで読んだ報告をしたり、してみてください。
書きやすくなるか、参加しやすくなるかはわかりませんが、試してみる、ということでー。
4月の「読むロバの会(オンライン読書会)」
テーマは……
「自然/nature」
4月末までの1ヶ月間、上記のテーマで選んだ本について、このブログのコメント欄に書いていってください。
過去に読んだ本から選んで、オススメ紹介文を書いてもよし。
テーマをもとに自分自身の今月の一冊を選んで、読んだ感想などを綴ってもよし。
匿名でもOK。
何度書いてもOK。
誰かのコメントに返信してもOK。
書き方は自由です。
ヒマール店頭でも、今月のテーマで本をセレクトして並べますので、よかったらチェックしにいらしてください。
ご参加をお待ちしています!
2021年3月の読むロバの会「とにかくうちに帰ります」はこちら!
2021年2月の読むロバの会「広場」はこちら!
2021年1月の読むロバの会 「わたしたちが光の速さで進めないなら」はこちら!
2020年12月の読むロバの会 「今年おすすめの一冊!」はこちら!
2020年11月の読むロバの会 課題図書「地下鉄道」はこちら!
「読むロバの会」がオンライン開催になったいきさつはこちら!
テーマ「自然/nature」ですぐに思い浮かんだのは、最近読了したリチャード・パワーズの「オーバーストーリー」(木原善彦訳/新潮社)。アメリカの原始林へと導かれる人々の人生が複雑に絡みあう、とにかく壮大な物語。木を中心に植物や森の描写も詳細で、読んだあと、木を意識して見るようになった。
それで、木つながりで思い出したのが、むかし読んだ幸田文の、タイトルもずばり「木」(新潮文庫)。幸田文さんが全国各地の木を訪ね歩いて記録したエッセイだったと思うのだけど、すごくよかったと記憶していて、再読してみたい気持ちになっている。
テーマにあわせて読んでみたいな、と思っているのは、ちょっと前に店で仕入れた「アンダーランド 記憶、隠喩、禁忌の地下空間」という本(ロバート・マクファーレン著/岩崎晋也訳/早川書房)。イギリスのネイチャーライターによるノンフィクションで、美しさで知られる洞窟や、グリーンランドの氷穴、地下につくられたダークマター観測所や、核廃棄物の墓など、さまざまな地下空間を訪れ取材して書かれたもののよう。なので、「自然」だけではないのですけどね。
小説で思いつくのはジャック・ロンドンの作品だけど、寒いときに読むといい作品が多い気がする。
大自然の驚異、大自然のふしぎ、みたいな本が読みたい!
おすすめがあったら、ぜひ教えてください!
自然……言われてみて思い巡らすと、実はあんまり自然をテーマに
したものって読んだことがないような気がする。
それでも、ぱっと浮かんできたのは、梨木香歩『f植物園の巣穴』と
その続編『椿宿の辺りに』。
「大自然の驚異」とか「大自然のふしぎ」とかではないんだけど、
梨木香歩の世界では、自然とか人間とか、動物とか植物とか、
大地とか水とか、どんなものも対立するのではなく、輪郭はゆるく
溶けて、混じり合い、境界は曖昧なものでしかない。
そういう表しかたがとても好きです。
あとは、やっぱりジャック・ロンドン『火を熾す』。
これは本当にこわい話。自然のおそろしさに畏怖の念を覚えます。
バーネットの『秘密の花園』を読んだとき、自然とのつきあいかたを
知ることでひとは成長したり解放されたりするんだな、と思ったのを
思い出した。これも自然というテーマからの連想。
梨木香歩の作品はたしかに、人間もそのほかの生物もすべて自然の一部というか、境界なく描かれていると感じるね。以前に読書会で課題図書として読んだ「海うそ」でも、人間が自然を壊して何かを作り、それがまた壊れて自然に還る繰り返しを、どこか1つの時点だけ切り取るのではなくて、破壊と喪失と再生の大きな円環で表してくれていると感じました。「海うそ」の山歩きの描写もすごかった。一緒に歩いている気になるくらい。山の匂いがしたくらい。
それで思い出したのは、スティーブン・キングの「トム・ゴードンに恋した少女」。家族と森へピクニックに来て迷子になった女の子のサバイバルの物語。これも森の描写、とくに夜の森の気配が怖かった。
ひとまず、ジャック・ロンドンの「火を熾す」を再読してみようと思います。すぐに読める短編なので。
『火を熾す』、わたしもすぐ手元にあるので再読してみます。
ジャック・ロンドンの「火を熾す」、柴田元幸翻訳叢書(スイッチ・パブリッシング)で3度目の読了。
何度読んでも怖い話。読みながらずっとどきどきする。
冒頭から、男ののんきな、自信と余裕たっぷりなようすに、その後の結末を知らなくても「そんなんじゃダメなんじゃないか!? 絶対ダメだと思うぞ」と不安にさせられます。
この先はネタバレになるので、これから読もうと思う方は読後に見てくださいね。
・・・・・・・・・・
この話の中では、自然が襲いかかってくるような描写はまったくないんですよね。
とつぜん猛吹雪になるわけじゃないし、クリークの氷の裂け目に落ちるわけでもなく、ただ膝から下がちょっと水に濡れただけ。
「男にとって零下五十度は、まさしく零下五十度でしかなかった。」
というのは、男の想像力のなさを表した一文だけど、ほんとうに、零下五十度だっただけ、といえばそれだけのこと。その、何かしてくるわけでもない自然に、もうまったくかなわない人間の弱さを思い知らされる。
エゾマツの木に伝わったわずかな振動の積み重なりが、雪崩のように大きな雪の塊を落とすところ。
あそこの描写も、ごく当たり前の自然の現象として淡々と描かれていることで、余計におそろしいというか、もうほんとうにかなわないなと思わせられます。
男も一旦はパニックに襲われるけれど、
「いい考えだ、眠ったまま死んでいくのは、そう思った」
という一文に、読んでいて、そうだよね、悪くないよね、とうなずけてしまうのも、自然の過酷さをことさら強調することなく描いているせいかもしれない、と思いました。ただ受け入れるしかない、というか。
『火を熾す』、やっぱりこわかった。何度読んでもこわい。
そう、ほんとに、「何かしてくるわけでもない自然」の
存在感が大きすぎる。
「男」も自然に対立するわけではなくて、ただちょっと
侮っていただけなのに、力及ばずに飲み込まれてしまう。
凍ってしまって思うように動かない自分のからだ。
その思うようにならなさ加減が、かえって人間も自然の
一部に過ぎないことを示しているように見えてくる。
凍っていて何の感覚もないのに走れてしまうところや、
手の肉が燃えているのを嗅覚で知る場面を読むと、
どんどん人間が自然に戻っていく感じが強くなってきて、
それはそれでいいんじゃないかと思えてくる。
人間の話ばかりになってしまったけど、犬のほうはどうかな。
そう! 凍っていて何の感覚もないのに走れてしまうところ、手の肉が燃えているのを嗅覚で知る場面、読んでいてほんとうにびっくりしてこわかったし、そういうことがあったあとだから、眠りながら死ぬのは悪くない、という男の考えにもすんなり共感できたのかもしれない。
くわえたマッチの硫黄の煙に咳き込んでしまった場面は、申し訳ないけれど、ちょっと笑ってしまったけど。
このマッチの場面やエゾマツから雪が落ちてくる場面は、とても緊迫したたいへんな状況なんだけど、一方で、不謹慎ながらちょっとユーモラスにも感じてしまう。どうかな?
犬といえば、動物の中ではいちばん人間に親しい存在だというイメージだし、こういう物語では人間を助けながら一緒にがんばる仲間として描かれることも多いと思うんだけど、この小説は違うね!
この犬は自分のことしか考えてない。この犬が、わたしはけっこう好きです。
ほんとはそうしたくないのに、鞭や怒鳴り声を思い出して反応してしまうのがかわいそうだ。
確かに、この犬は人間と力を合わせて、とかいう存在ではないね。
かといって、自然の側に立って超然と男を眺めているわけでもなく、
自分が生きのびることだけに焦点が絞られている感じ。
自然は誰に対しても平等に無関心であるように思う。
犬だけでも助かっていますように。
『火を熾す』には今ここで扱っている1908年版とは別に、もっと
短い1902年版があって、そちらには犬は出てこない。男には
トム・ヴィンセントという名前が与えられていて、自然と戦って
征服してやろうという姿勢をはっきりと示している。
とにかく旅には相棒を、「絶対に一人で旅するな!」というのが
主なメッセージになっていて、1908年版に比べると内容は格段に浅い。
でも、このメッセージが有効であるならば、1908年版においては、
少なくとも男には犬という相棒がいたのに、せっかくのその相棒の存在を
活かしきれなかった男がいかに無力であったかを思い知らされる。
「自然は誰に対しても平等に無関心」、確かに。
1902年版のことは知らなかった!
そちらを読んでいないので比べられないけど、1908年版の犬の存在は、男の愚かなところ、無力さを、さらに際立たせているように思う。男と犬は、道行きの連れではあったけど、「相棒」ではなかったということになるのかな。
ふと、相棒が犬でなく人間だったら、たとえば男の部下だったら、と想像して、犬の態度や行動を男の部下の態度や行動に置き換えてみて、ぞっとした。相棒(同行者)がたとえ人間だったとしても、同じことになる可能性はあると思わない?
その場合、大した助けもせずに立ち去った部下を、私は、この犬と同じように好きと思えるだろうか、と考えてしまった。犬であろうと部下であろうと、助かってはほしいけれど。
短編は、お互いにすぐ読めて、読後の印象が新鮮なうちにこうして話せるからいいね!
1902年版は『犬物語』(2017、スイッチ・パブリッシング)
に入っています。犬は出てこないんだけど。
そうだね、犬じゃなくて人間だったら。
うーん、なんだか生々しすぎるな。
ありそうでえぐい。
犬もあれほど人間に従属した性質じゃなくて、狼みたいに
隙あらば男を食い殺してやろうぐらいの迫力があったら
また違う話になるね。
こうやってひとつの小説をいろんな方向から読んでみる
のが楽しいね。
長編でも少しずつ区切って読んでみたらどうかな、学校で
やるみたいに。
『オーバーストーリー』読みたいんだけど、長すぎるかね……。
そうか、「犬物語」で読めるのか!犬は出てこないのに!?
「オーバーストーリー」
前半は、登場人物たちそれぞれの物語。
後半は、その登場人物たちが、アメリカの原始林をめぐって、直接的にだったり間接的にだったり人生が交差していく話。
後半に入らないと全体の話は見えてこないんだけど、逆に前半は、一人ひとりの物語なので、そういう短編として読めなくもない。
私はちょっとずつ読んで読了するのに1年かかったけど(長い休憩を挟みつつ)、どこまで読めるか、試しに読んでみる?
試しに読んでみるよ!
時間かかりそうだけど。
まずは最初の一人の話だけでも、読み終わったら教えてね!
『オーバーストーリー』に取りかかる前に、ファーブル昆虫記を
元にして朝日小学生新聞に連載された『ファーブル先生の昆虫教室』
(ポプラ社、2016年)という本を読んでいます。
ファーブル昆虫記全10巻(全20冊)を翻訳された奥本大三郎さんが
文を書き、絵はやましたこうへいさんが担当しています。
これがもう分かりやすくて楽しくて、夢中になって読んでしまいます。
そして、ものすごく何かを観察したくなる。
じっくり観察するって大事なことなのに、ずっと長い間忘れていた
ような気がする。
何だってまた、こんなにせっかちに生きていってるのかなあ。
ファーブル先生!わたしも観察して考えてみたいです!
ファーブル昆虫記、この前書店で見かけて手に取って、最初を読みかけたのだけれど、どうも続きませんでした。詳細な記述に私の注意力が持続しないのです…。
マンガならいけます。『とりぱん』という、それこそ鳥や他の動物、植物がどんどん出てくるマンガ。私はこれでヒヨドリとかツグミとかの名前を覚え、庭に来る鳥がだんだん同定できるようになりました。岩国に帰ってきたばかりのころ、気持ちが落ち着かないなかで、一つの重りを与えてくれました。ありがとう!
なお、作者は東北に住んでいる人らしく、地域色が出てくるコマがあります。岩国周辺の動植物が出てくるマンガがあればいいのに…そう思いませんか?
ファーブル昆虫記、あまりの分量にわたしもなかなか手を出すことができません……。
なので、とりあえず子供向けの絵本を読んでみました。
リアルすぎない絵の具合がちょうどよくて、楽しめましたよ。
ですが、ファーブル先生は実験のためにどんどん虫を殺したり傷つけたり、
邪魔をしたり意地悪したりの連続なので、だんだん読んでいるこちらが
ぐったりしてきます。
実験の結果が自然環境の保全や改善に役立つこともあるのかもしれないとは
思いますが、結構つらいです。
人間は自然に対していろんな実験をしてきているけど、それってどこまで
どうなのかなあ、とファーブル昆虫記からも考えさせられます。
『とりぱん』、おもしろそうですね!
岩国周辺の動植物、どんなのがありますかね。
よくわかっていないので、そういう教えてくれるようなものがあると、
知っているのに気づいていなかったことに出会えそうでいいですね。
身近なことを知るって、いままでないがしろにしてきているような気がします。
「自然のレッスン」北山耕平著(太田出版)
たまにふと手が伸びて読み返す本。
帯には「街からのオーガニック・ライフ」と書いてある。
すごく特別なことが書いてあるわけでもない。当たり前といえば当たり前のことが多いかも。
でも、読むたびに新鮮に感じる。
つまり、内容を覚えているわけではないし、実践しているわけでもない、ということになる。
実際、ジャンクフードみたいなものもわりと食べるし、運動はほとんどしないし、パソコンやスマートフォンをさわってばかりだし、買い物が好きだし、掃除は苦手だし、この本とは真逆の生活を送っている気はする。
しかし、だからときどき、この本が必要だと感じるのかもな、とも思う。
読むと、ちょっと気持ちが整うように感じる。
書いてあるようにしなくちゃ、と思うとかえってストレスになると思うのだけれど、ふしぎとそうは思わない。
そう感じるのは、私だけかな?
この本を読むと深呼吸できるようで、そのこと自体が「自然のレッスン」な気がして、ときどき手にとってしまうんだろうと思う。
テーマでの読書会、幅があって面白そうです。
自然/natuteというテーマで真っ先に思いついたのは、星野道夫『アラスカ 風のような物語』(小学館文庫)でした。たしか、この読書会で教えてもらった本の一つです。本書の中に、息をのむような写真、腹の底にごつんと響くような文章はいくつもあります。いちばんすごいのは、作者の生きざまと死にざまでしょう。ただ、そのすごさに妙に憧れてもはじまらない(私個人としては)ような気がするし、逆にねたむのはさらに的外れ。
本書の巻末に収録されている絶筆原稿に、「人間には二つの大切な自然がある。日々の暮らしの中で関わる身近な自然、そしてもうひとつはなかなか行くことのできない遠い自然である」と書かれています。絶筆原稿の中に。アラスカで暮らした星野さんにとって、「遠い自然」はないように思ったけど、彼は自分にとって沖縄がそれだと書いています。そんなものなのかもしれません。すべての人にとって、身近な自然と遠い自然があるのでしょう。そして、「身近な自然」の中の冒険者だっているのではないか。私はそう思って、生き、動き、考えることにしました。そうしているうちに、いつのまにか、あるいはいつか突然、それが「遠い自然」につながっているかもしれないと。
それにしても、小学館文庫の本書のカバー写真(星野さんがザックをしょって自然の中にたたずんでいる)を見ると、いかにも力の抜けた、自然な彼の立ち姿にうなります。