こちらは「読むロバの会(オンライン読書会)」の会場です。
日々のブログの更新は、ひとつ下の投稿から始まります。
読んで書く、文章に親しみたのしむ読書会です。
本を読んで感じたこと、考えたこと、それを言葉に、ましてや文章にするのはなかなか難しいかもしれませんが、どうぞ気軽に書いてみてください。
6月の「読むロバの会(オンライン読書会)」
テーマは……
「雨」
6月末までの1ヶ月間、上記のテーマで選んだ本について、このブログのコメント欄に書いていってください。
過去に読んだ本から選び、オススメ紹介文を書いてもよし。
テーマをもとに自分自身の今月の一冊を選んで、読んだ感想などを綴ってもよし。
匿名でもOK。
何度書いてもOK。
誰かのコメントに返信してもOK。
書き方は自由です。
ヒマール店頭でも、今月のテーマで本をセレクトして並べますので、よかったらチェックしにいらしてください。
ご参加をお待ちしています!
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『とにかくうちにかえります』津村記久子(新潮文庫)
以前にオンライン読書会の課題図書として読んだことのある本です。
短編集ですが、帰宅の交通手段が止まってしまうほどの豪雨の中の人々を描いた表題作は、とりわけおもしろい。
『パンツの中まで湿っている。いったいどこから雨が入り込んで来たのか。レインコートの前のボタンを全部留めているだけあって、さすがにシャツやスーツは無事のようで、蒸し暑くさえあったが、寒気が下半身から這い上がってくる。ずっとスラックスが濡れていて、水分が染み込む繊維を求めてじわじわと進んでいるからだろう。生きているようだ、とサカキは思う。降る雨も流れてくる雨もスラックスに染みた雨も動く。ただ触れたものを濡らすために。隣り合った粒と融合してより大きな粒になるために。いずれ大きな流れになるために。』
コントロールなどできない大きなものに翻弄されながらも、それとはまったく別のことを悩んだり考えたり、腹を立てたり必死になったりしている、にんげんの愛おしさよ。
モーム「雨」(『雨・赤毛』朱牟田夏雄訳、岩波文庫)
雨と言えば、まっさきに思いつく短篇を読み返してみました。
サモア諸島の港町パゴパゴで二週間足止めされることになったイギリス人の宣教師夫婦と医師夫婦。彼らと同じ家に、同じく足止めされた若い娼婦が下宿することになった。道徳的に厳格な宣教師と娼婦の間には反目が生まれる。サモアはおりしも雨季。止まない雨に降りこめられて、両者の緊張はどんどん高まっていき、ついに避けがたい破局へと向かう――。
タイトルが示すとおり、熱帯の雨は小説の「主役」といえる存在感を発揮していて、しばしば挟まれる雨の描写は、登場人物の誰よりも生々しく感じられます。
「一方マクフェイル医師は雨を眺めていた。雨は彼の神経にこたえはじめていた。それは、おだやかに地にそそぐあのわれわれの知る柔かい英国式の雨とは似もやらず、無慈悲な、どこか物すごさのある雨だった。何か、自然の原始的な力が持つ悪意というようなものが感じられた。ただの土砂降りというのではない、もう、奔流のような雨だった。まるで天からの洪水という感じで、ナマコ板の屋根に、人を発狂させそうな小やみもない執拗さでバタバタたたきつけた。雨自体が何かに激怒をいだいている感じだった」。
植草甚一『雨降りだからミステリでも勉強しよう』ちくま文庫、2015。
植草甚一が、原書で読んだ英米仏のミステリを紹介したコラム。元になった晶文社版(1972年刊)を中学校の図書館で借りて読んだのですが、正直に言うと、そのときは内容よりもタイトルのほうが強烈に印象に残ったものです(その後、大人になってから読み返したときに、初めて本書の面白さが分かった気がします)。
「雨降りだから~」というタイトルは、もちろん「晴耕雨読」の「雨読」ですが、もうひとつ、洋書で時々見かける――児童書に多い――Rainy Day Book=「雨の日のための本」も、J・J氏は意識していたのでしょう。
エドワード・ゴーリー『ずぶぬれの木曜日』柴田元幸訳、河出書房新社、2018。
大雨の木曜日。主人がどこかに置き忘れた傘を、黒犬ブルーノが探しに出かけます。謎の傘泥棒、店でなかなか気に入った傘が見つからない客、傘に隠れた子供、傘で目を刺した男など、雨と傘をめぐる街の人々のエピソードが語られるなか、ブルーノは思いがけない形で主人の傘と出会うことに――。
英語でblack dogと言えば憂鬱のことですが、ブルーノはけなげで前向き。雨の街で、意気揚々とご主人の傘を探し歩きます。大型犬ならではの可愛らしさに満ちあふれていて、ゴーリー(猫派として知られていますが)のなかでも特に好きな1冊です。
あ! 英語でblack dogは憂鬱のことだったんですね!知らなかったー。
「ブラックドッグ」というタイトルの韓国ドラマがあって、日本では「新米教師コ・ハヌル」という副題がつけられているんですけど、なんでブラックドッグなのかなーと思ってました。そういう意味だったのか。
・・・テーマ「雨」と関係ない話ですみませんー。
犬と英語の話を無理やりテーマに関連づけると、「土砂降り」がIt rains cats and dogsですよね。
雨についての英語の成句ではcome rain or come shine, 「降っても晴れても」=「どんなときも」、というのもあり、ジャズのスタンダードの曲名にもなっていますが、そういえばイシグロにこのタイトルの小説があったなあ……と思い出しました(『夜想曲集』所収)。
『降っても晴れても』、ありましたね、『夜想曲集』に、そういえば。
『ずぶぬれの木曜日』、大型犬ブルーノの言葉があまりにも前向きで、
「きっとやりとげるぞ」とか「やりとげるまで あきらめないぞ」とか、
ゴーリーなのにありえん……、と半信半疑で読んでいくと、本当にありえ
ないような活躍が描かれ、驚きながらも、たまにはこういうのがあっても
いいよね、と思ったのを思い出しました。
雨の出てこない話。
フィッツジェラルドの「バビロン再訪」、昔の角川文庫などでは「雨の朝パリに死す」と訳されていました。これはもちろん、「バビロン再訪」を原作にしたリチャード・ブルックス監督の映画『雨の朝巴里に死す』のせいなのですが、しかし、映画の原題は*The Last Time I Saw Paris*なのです。しかもエリザベス・テイラーが致命的な肺炎になるのは、雨のせいではなく、(フィッツジェラルドの原作どおり)雪のため。
日本語タイトルの「雨」は、どこからきたのか……?
そういえばデュラスの『モデラート・カンタービレ』の映画版も、日本語では『雨のしのび逢い』と題されていながら、雨は一滴も降らないのでした(映画の原題は小説と同じ*Moderate Cantabile*)。
フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』(木村榮一訳/河出文庫)
スペイン、ピレネー山奥の廃村。一軒、また一軒と、人々が村を出ていく中で、最後に残った夫婦だったが、妻が首をくくり、語り手は村の最後のひとりとなって、飼っていた雌犬とともにただ死を待つだけの日々を過ごしている。
崩壊する空き家。甦る記憶。訪れる亡霊たち。
本を開くとまず、文頭一字下げならぬ、文頭一字上げの文字組みに一瞬、違和感を覚えます。が、読んでいくとあまり気にはなりません。どういう意図があるのかは、わかりませんが。
第一章で、「〜だろう。〜だろう。」と語り手の推量の文体が続きます。それを読んでいるうちにだんだんと語り手の頭の中に引き込まれていき、黄色い雨の世界に入り込んでしまいました。
「時間はゆっくり流れてゆき、黄色い雨がベスコース家の屋根の影と月の無限の輪を消し去って行く。毎年秋になると必ずあの雨が降る。家々と墓石を埋め尽くす雨。人々を老いさせる雨。人の顔を、手紙や写真を少しずつ破壊してゆく雨。川岸で過ごしたある夜、その雨は私の心の中に入り込んだが、それからというもの最後まで私から離れようとしなかった。」
黄色い雨は、本当の雨というより、秋に黄葉して落ちるポプラの葉を指しているようです。雨のように降ってくる、大量のポプラの黄色い枯れ葉。その黄色い枯れ葉に覆い尽くされる村。水も大気も黄色。
想像すると、ちょっと気が変になりそうです。
『黄色い雨』は大好きな小説でした。崩壊が美しさに、閉塞感が解放感につながるような不思議な世界。一匹の犬と廃墟と雨のイメージに、タルコフスキーの『ノスタルジア』をふと連想します。
『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2022年)
訳者は松浦理英子。
雨の中でのエピソードが、とても印象的です。
信如は田町への届け物をことづかって雨の中を出かけていきます。
「お歯ぐろ溝の角から曲がって、いつも行くことにしている細道をたどって
歩いていると、運悪く大黒屋の前まで来た時、さっと吹く風が大黒傘の上を
つかんで、宙へ引き上げるかと疑うばかりに烈しく吹きつけて、これはいけ
ないと足に力をこめて踏みこらえた途端、それほど弱いとは思っていなかっ
た前鼻緒がずるずると抜けて、傘よりもそれこそ一大事になってしまった。」
信如は鼻緒を直そうとするも、持ち前の不器用さはどうしようもなく、ただ
もたもたとするばかりで、着物の袂は汚れ、預かり物の小包も落として泥ま
みれにしてしまう。
美登利は屋内から硝子ごしに、誰か鼻緒を切った人があるのを見てとり、渡
してやろうと友禅縮緬の切れ端をつかんで走り出てくる。
「それが誰かわかった瞬間美登利の顔は赤くなって、どんなたいへんなこと
に出くわしたのかと問いたいほどに、胸の動悸が速くうつものだから、人が
見ているかと後ろを見ずにはいられず、恐る恐る門のそばへ寄れば、信如も
ふっと振り返って、これも無言で腋に冷や汗が流れ、裸足になって逃げ出し
たい思いである。」
いつもの美登利なら文句や皮肉をまくしたてるところ、ものも言わずただ
隠れて信如を見ている。信如も美登利が見ていることに気づきながらも、
知らん顔をしている。
美登利は恨むようなやるせない気持ちで格子の間からきれを投げだし、戻
っていく。信如はようやく振り返り、友禅が自分の足の近くに散らばって
いるのを、取り上げることもせず眺めている。
「好き」とか「恋」とか、そんなことを自覚する以前の、じれったくも
せつないふたりの心のうごき。
最後に、好きな雨の詩をいくつか。
西脇順三郎の「雨」。
「南風は柔い女神をもたらした。/青銅をぬらした、噴水をぬらした、/ツバメの羽と黄金の毛をぬらし、/湖をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。/静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、この静かな柔い女神の行列が/私の舌をぬらした」
李賀の恐い雨。
「南山何其悲 鬼雨灑空草」(「南山はなんと悲しいのか。幽鬼の恨みの雨が、人影のない草むらにそそぐ」『中国名詩選(下)』川合康三編訳、岩波文庫)
トーマス・トロンストロンメルの不思議な雨。日本語訳をもっていないので、英訳から。
“The tree is walking around in the rain./moving past us in the squishy gray./
It has a job to do. It picks life ort of the rain / like a blackbird in a cherry orchid.”
(*The Half-Finished Heaven: Selected Poems*,tr. by Robert Blay, Penguin Books)
中野重治の批評的な雨。
「辛よ さようなら/金よ さようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する/……/ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる/ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる/雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる/雨は君らの熱い頬にきえる」(「雨の降る品川駅」)
ジャック・プレヴェールの“Dejeuner du matin”も取り上げたいのですが、本が行方不明……。
フェルナンド・ペソアのポルトガルの雨。
「もう二日も雨が降りつづいている。灰色の冷たい空から、その色で魂を寂しくさせる特別な雨だ。二日も……。私は感じるのが寂しく、窓から、落ちてくる雨やしずくの音を聞きながら、それについて考える」(『不穏の書、断章』澤田直訳、平凡社ライブラリー)
そして、鬼貫が梅雨を詠んだ一句。
「さつき雨 ただふるものと 覚えけり」
内田百閒の雨。
『東京日記』より
「私の乗った電車が三宅坂を降りて来て、日比谷の交叉点に停まると車掌が故障だから
みんな降りてくれと云った。
外には大粒の雨が降っていて、辺りは薄暗かったけれど、風がちっともないので、ぼ
やぼやと温かった。
まだそれ程の時刻でもないと思うのに、段段空が暗くなって、方方の建物の窓から洩
れる燈りが、きらきらし出した。
雨がひどく降っているのだけれど、何となく落ちて来る滴に締まりがない様で、雨傘
を敲く手応えもせず、裾に散りかかる滴はすぐに霧になって、そこいらを煙らせている
様に思われた。
辺りが次第にかぶさって来るのに、お濠の水は少しも暗くならず、向う岸の石垣の根
もとまで一ぱいに白光りを湛えて、水面に振ってくる雨の滴を受けていたが、大きな雨
の粒が落ち込んでも、ささくれ立ちもせず、油が油を吸い取る様に静まり返っていると
思う内に、何だか足許がふらふらする様な気持になった。」
内田百閒の世界では、雨であっても雨のようではない雨なので、油断できません。
『南山寿』より
「外はひどい吹き降りなのだが、時時雨の音が聞こえなくなる様な気がした。自分の耳
の所為かと思って居住いを直すと、またざあざあと云う烈しい音が戻って来る。雨音が
軒や戸袋を敲く時は身のまわりが肌寒い様に思われ、その音が耳から遠ざかっている間
は、辺りがもやもやと蒸し暑くなって来た。」
そんな雨の中を訪ねてきたものがあり、それは自分の後任に着いた男であるようなのだ
けれど、どことなく人相が違っているようなそうでないような気持ちのままに、男は話
をすませて帰っていく。
客に出すお茶の用意を頼んでいた妻は、用も足さずそのまま茶の間で寝ている。
「おいおいと呼んで見ても、目を覚ますどころか、却って深く眠り込む様に思われた。
気がついて見ると、微かな鼾をかいているが、その声が獣が唸っている様であって、し
かも鼾と鼾との間が随分間延びがしている。少し変だと思われ出したので、肩に手を掛
けてゆすぶって見たけれど、不思議な声がするだけで、決して目を覚まさなかった。
吹き降りの中を馳け出して、近所の医者を呼びに行ったが、傘はさしていても何の役
にも立たなかった。風に傘をすくわれる度に、大粒の雨が激しく頬っぺたに打ちつけて
来た。雨の粒には冷たいのと温かいのと混じっている事を、自分の肌ではっきりと感じ
分けた。」
『梅雨韻』という、あやしい雨の降りつづく作品もあります。そうとうこわいです。
百閒と雨と言えば、猫文学の傑作『ノラや』も思い出されます。
「三月二十八日木曜日
半晴半曇夕ストーヴをつける。夕方から雨となり夜は大雨。
ノラが昨日の午過ぎから帰らない。一晩戻らなかつた事はあるが、翌朝は帰つて来た。今日は午後になつても帰らない。ノラの事が非常に気に掛かり、もう帰らぬのではないかと思つて、可哀想で一日ぢゆう涙止まらず。やりかけた仕事の事も気に掛かるが、丸で手につかない。その方へ気を向ける事が出来ない。それよりもこんなに泣いては身体にさはると思ふ。午前四時まで待つた。帰つて来たら、「ノラや、帰つたのか、お前どこへ行つてたのだい」と云ひたいが、夜に入つて雨がひどくなり、夜更けと共に庭石やお勝手口の踏み石から繁吹きを上げる豪雨になつて、猫の歩く道は流れる様に濡れてしまつた」。
大の大人が子猫のためになすすべもなく泣きあかし、それに誘われるように雨が降りはじめる。滑稽でありながら不気味でもあり、しかし読み進むうちに、百閒の愚かなまでの愛情に感動してしまうのでした。
村上春樹『バースデイ・ガール』
『バースデイ・ストーリーズ』という、誕生日をテーマにした短篇を
村上春樹が編訳した一冊の末尾に収められた作品。
「彼女の二十歳の誕生日である十一月十七日も、仕事はいつもと同じ
ように始まった。昼過ぎからぱらぱらと雨が降り出し、夕方にはひど
い降りになっていた。」
ほんとうは彼女の二十歳の誕生日であるその日は、もうひとりのアル
バイトの女の子と日にちを交換してもらっていたのだけど、その女の
子が風邪をこじらせて寝込んでしまい、結局仕事に出ることになる。
彼女のアルバイト先はそこそこ名の知れた六本木のイタリア料理店。
彼女にとって特別な日であるその日に、いつもの勤務とは違う、ある
出来事が起こる……。
さらっと書かれた短編小説なのに、さすが村上春樹のすり込み力は
侮れなくて、11月の冷たい雨が降るような夜には、ついこの小説を
思い出しては、その日彼女の身に起こったことについて考えを巡ら
せてしまうことになります。
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